「美里先生、ご苦労さま。いつもながら見事だったね」
仕事を終え、患者の血が付着した手袋を脱ぎ棄てたところで病院長が声を掛けてきた。
「いいえ、病院長。おつかれさまでした」
「うん、お疲れ様」
大学付属病院の病院長自らが、オペを終えただけの一医者にねぎらいの言葉を掛ける為に、わざわざ足を運んだというのに、女は明るい笑顔で理知的な声で応えたはしたが、普段とは少し様子が違っていた。
医療用キャップ脱ぎ、肩まで伸ばした黒髪を手櫛で手早く整えると、病院長に笑顔で礼儀正しく頭を下げ、速足にその場を去ってしまう。
「菊沢先生、どうしたんでしょうね。デートでしょうか?」
速足に立ち去る彼女の背を見ながら、病院長の秘書も兼ねている看護師が、普段と些か違う雰囲気の彼女のことを訝しがったのか病院長にむかって呟いた。
「・・うん、少し疲れているのかもしれないね。ここのところ断り切れない急な依頼が多かったせいで、彼女には無理をさせてしまったからね。彼女・・手術前に休暇依頼を出してきたんだ・・。彼女も独り身であの美貌だからね。私がもう30歳若ければ・・ごほん!昨今はこういう冗談も言えない風潮だな。聞き流してくれたまえよ」
「はい、大丈夫ですよ。でも、そうなんですね。菊沢さんはうちのエースですし、お休みできるときはしっかり休んでもらった方がいいですよね。彼氏とのデートをすっぽかさなきゃいけないほど予定詰めちゃうと、他所の病院に移られちゃいますよ。そしたらウチとしては大損ですもん。なんたって彼女は文字通りオペの成功率100%ですもんねえ。ブラックジャックも真っ青です」
病院長の言葉に秘書兼看護師もそう言いながらうんうんと頷いている。
今日の患者は財界大物の親族であった。
大学病院は、公正公平を建前としている公の機関ではあるが、何事にも秘めたることはあるもので、財界や政界、権力を持った者達は当然のようにそれを行使してきている。
一般の患者とは違い、最高の設備に最高の医者を有り余る財力で優先的使用権を得ているのは、どの世においても致し方ないのかもしれない。
しかし、この医療の世界でも腕利きの外科医として名を轟かせている彼女、菊沢美里本人は患者に対し、特にそういう分け隔てはしていない。
どの患者にも全力を尽すのが、彼女の当たり前のことであった。
今日の彼女の様子がいつもと違ったように見えるのは、彼女にしか感じることのできない全く別のことで心中にさざ波が立ってしまっていたからであった。
その様子が、普段の彼女を知る者たちに僅かながらも違和感を与えてしまったのである。
速足のまま駐車場にある赤い愛車のドアを慌ただしく開け、勢いよく身体をシートに沈めた菊沢美里は、キーを回し軽くアクセルを吹かせてから一気に駐車場から公道へと走らせた。
長時間の勤務で疲れていないことはないが、美里の表情に疲れは現れていない。
気になることが頭の片隅にあり、疲れていると脳が感じている余裕すらないといったところである。
手術室に入ったのは深夜を少しまわったぐらいであったのだが、いまはもう朝方と言ってもいい時間帯になっていた。
その為か通行量も少なく、スピードを出しやすい。
美里は手術前には気のせいかもしれないと思っていた感情をかき消すように、肌身離さず身につけているネックレスのトップをきつく握っては、気のせいではなかったことに表情を曇らせる。
手術前に一度試してみていたのだが、その時はコール音すらしなかったのだが、それはどうやら今も同じのようである。
「・・・コールすらしないなんて・・こんなこと今までなかったのに」
美里は車を走らせながら、スマホをきると、ふうと肺に溜まった空気を吐き出す。そして、朝方、深夜とも言える時間ではあるが、思い切ってもう一度スマホを操作し出した。
今度は先ほど掛けた相手とは別の相手だ。
「・・・・お願いです。出てください」
コール音を耳で聞きながら、美里は焦りからつい声に出してしまっていた。
静かだが切実な願いが聞き届けられたのか、コール音が耳元で途切れ、明け方近い時間帯だというのに、耳元でのどかな口調で、いつも通りの調子の声が聞こえた。
「おはよう~美里くん。こんな時間に電話を頂けるなんて、ついに僕の求愛に応えてくれる気になったのかな?人目をはばかるこんな時間というのはさすがに奥ゆかしい君らしいね。君さえ大丈夫なら僕はもちろんいつでも大丈夫だよ。特に今日の朝立ちはいい感じですよ」
「おはようございます先生!こんな時間に起こしてしまって申し訳ありません」
菊沢美里は恩師の穏やかないつもの口説き文句と軽いセクハラ発言には、さすがに対応するゆとりもなく、こんな時間にも関わらず電話が繋がったことによる喜びから、普段より大きな声を出してしまった。
「・・なにかあったのですね?」
聡い元部下のらしからぬ様子に、恩師も気づいたようで穏やかながら声色がやや変わった。
「申し訳ありません。まだ何かあったのかはわかりません・・。でも宏ちゃんのことで」
美里はネックレストップが伝えてくる不安を握りしめてかき消すようにしながら、高速道路にのった愛車を走らせたのであった。
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身を刺すような冷たさの強風にその髪の毛が、いいように靡かされているのを構うゆとりもなく、千原奈津紀は正面で膝を付いた男に刀を向け見下ろしていた。
船舶で運ばれてきた荷物を仕分けする巨大なクレーンの残骸の上部に立ち、同じくその上で蹲り、血にまみれたサングラス男に向かい奈津紀は正眼に構え直す。
サングラスの男、菊沢宏は奈津紀の攻撃を、かいくぐりついに取引の現場である倉庫のすぐ近くの船着き場まで到達していたのだ。
しかし、相手は暗殺者集団、高嶺六刃仙筆頭剣士である千原奈津紀、まさに現代の剣聖とも呼べる達人を相手にしているのだ。
なんとか目的の張慈円のいるところまであと一歩まで突き進んできたのであるが、むろん無傷と言う訳にはいかなかった。
剣聖千原奈津紀の絶技は、多彩なうえ容赦ない猛剣であった。
クールな表情と口調からは想像もできない、苛烈な猛攻猛撃が千原奈津紀なのである。
「見事です」
普段と変わらぬ口調で、剣聖は目の前の男を賞賛した。
無数の刀傷を受け、呼吸も荒く、血まみれのサングラスの男を見下ろしながら、千原奈津紀は正眼に構えた格好のままサングラスの敵に対し、正直にそう言葉を発していた。
「ぜぇぜぇ・・ははっ。あんたもな」
奈津紀の言葉を聞いて、サングラスを人差指と中指でくぃと持ち上げなおした宏は、よっこいしょと言いながら、狭い足場の上に立ち上がりそう言ってかえす。
上半身裸である宏の肉体は、奈津紀によってつけられた刀傷と、自らの血で彩られておりダメージは見た目どおり相当なものであると分かる。
しかし、宏を正面から見下ろし正眼に構えた剣聖、千原奈津紀の姿はもっと悲惨で深刻であった。
身につけていたスーツのジャケットは戦いのさなかに千切れてすでに無く、ブラウスもボタン部分から破れ、片紐だけになった赤いブラジャーがその豊満な胸を何とか、双丘を零さないように包んでいる。
タイトスカートも激しい戦いのせいで破れ、ホットパンツのように短く千切れている上、スリットとはとても呼べないような縦にさかれたほつれになっていた。
風に弄ばれる髪は乱れ、汗と泥などで美しい顔は汚れていた。
奈津紀のトレードマークでもある、フチなしの片方のメガネはヒビが入ってしまっている。
そして、身体の至る所に痛々しい裂傷の後があり、血を滲ませていた。
それが天穴を応用して剣の形を模したオーラで打たれた箇所であった。
その傷は今日だけで付いたキズであり、そしておびただしい数であった。
奈津紀が剣聖と謳われるほどの腕前であるが故に、菊沢宏の攻撃をかろうじて防げてしまい、躱し続けた結果、膝を屈するほどのダメージの蓄積に至るまでに、多くの攻撃を受け過ぎてしまったのだ。
白く美しい豊満な奈津紀の身体は、宏としても不本意だが傷だらけにしてしまったのである。
「くっ!」
普段どおりのポーカーフェイスで正眼に構えていた奈津紀だったが、我慢していたダメージと痛み、そして点穴特有のオーラ発現の阻害効果に耐えきれず、ついに特に裂傷のひどい肩口を抑えその場で膝を付いた。
「ぜぇぜぇ・・もうええやろ?雇い主に対して十分義理立てしたんとちゃうか?」
宏は、拳と剣を交わらせ生死を掛けた戦いをした千原奈津紀という達人に素直に尊敬の念をいだいていた。
戦い始めたお互いの力量が定かではない最初こそ、なんとか無傷で戦いを終わらせようと思っていたのだが、それは本当に最初だけだった。
途中から宏は全力で戦っていたのだ。
とてもそんな余裕を持って制することが可能な相手などではなかった。
現に宏が全力をもってして戦っても、偶然が重なれば勝敗はわからないほど伯仲していた。
しかし今は、すでに両者とも決着はついたと悟ってもいた。
しかし、当の奈津紀の目にはいまだ輝きを失ってはいない。
それどころか、戦い始めた頃よりも目には精気があるように見えた。
「・・ふ・・ふ・・菊沢宏・・相変わらず甘い男ですね。この期に及んでまだそのような・・。それにまだ勝負はついていません」
かすれた声で微かに笑い、軽く首を振りながら奈津紀はそう言ったが、奈津紀の目には宏を敵として認めている様子がうかがえた。
千原奈津紀は、もはや服とは呼べなくなったボロボロの布をまとい、下着も露出させ肉付きの良い身体を惜しげもなく披露してしまっているが、自らの死ですらすでに覚悟している不屈の表情で刀を構えた姿は何故かエロティックさがあり、それでいて高名な芸術家が描いた絵のような神々しさすらあった。
その覚悟と姿に感じ入った宏も、女は不殺と誓っていたのだが、その誓いに迷いが生じた。
(はじめて女を殺ることになるかもしれん・・・。せやけど、ここでこの女の覚悟に応えんのは、それこそこの女に失礼な気がするが・・しかし・・これほどの奴を・・この女も、ああは言うてるが、もう勝負はついとるってわかっとるはずや・・)
「いきますよ。菊沢宏」
高いところで構えた千原奈津紀、クレーンの先端という高いところではあるが、その先はもう無いのだ。
敵を見下ろしてこそいるが、そこは追い詰められた場所であった。
剣技を極めたと言っても過言ではない使い手は、ここにきて更に見目美しく、そして自らの敗北を悟っていてもその覚悟と心意気は気高く美しい。
落ち着き払った澄んだ声で、攻撃を宣言した奈津紀の声に迷いは感じられない。
「ああ。こいや」
宏はこういう時に、よりいっそう口数が少なくなってしまう。
天穴により、ほとんどオーラを練れない奈津紀は、ほぼ生身の剣技のみで戦わなくてはならない。
最後の僅かに発現できたオーラを振り絞った千原奈津紀の殺気が膨らみ、正眼からのほぼ振りかぶらずに打ってくる最速の上段攻撃が宏の眉間に振り下ろされる。
がきぃん!
ようやく明け方になって雲の合間から覗いた月光りに、奈津紀の愛刀和泉守兼定の刀身を煌めかせた。
奈津紀は刀こそ手放さなかったが、宏の青白いオーラ状の剣は奈津紀の白刃を弾き、徒手空拳にオーラを纏った宏の右手の刃は奈津紀の左胸部を貫いていた。
「ぅく!・・・見事・です。生身とはいえ私の剣を見切るとは。・・・しかし・・なぜ・・この期に及んで私を愚弄するのですかっ・・あなたほどの腕ならば・・ぐふっ・・心臓を貫くのは訳もなかったはず」
宏の右手のオーラに胸を貫かれ、力なくその身を宏に預けてきた千原奈津紀は、口から血を伝わせつつ、宏の攻撃が急所を外れていることに困惑した声をもらしたのだ。
「最初にも言うたけど・・やっぱり女は殺されへん・・。とくに別嬪さんはな・・」
宏はそう言うと、もはや力なくうなだれた豊満な奈津紀の身体を受け止め、貫いたオーラ状の剣を引き抜くと、優しく奈津紀をクレーンの金網の平場にゆっくりと下ろした。
「くふ・・この私が・・女ということで情けをかけられるとは」
宏に抱き下ろされた奈津紀であったが、そう言いすぐに上体を起こし立ち上がろうとする。
手にはいまだに愛刀和泉守兼定が握られているが、奈津紀には最早その剣を振るう意思なないように見えた。
「私の負け・・です」
奈津紀を抱き下ろした格好のままの宏は、なんとか立ち上がってそういう奈津紀を見上げていた。
「このキズは点穴・・なのでしょう?生き残っても、まともにオーラが使えなくなった私はもはや生きている価値など有りません。死ぬときは戦いの中でと思っていたというのに、菊沢宏・・・あなたのような甘い男と最後に相対したのが私の運の尽きです。御屋形様・・ご期待にそえず・・申し訳ありません」
「そないに自分を責めんなや。・・・オーラが使えんようになったとしても、死ぬことあらへんがな。あんたならいくらでもどんな道でもやりなおせるんちゃうんか?」
左胸の傷口を抑え満身創痍、フラフラでようやく立っているといった様子の奈津紀はそう言い、宏のセリフを聞き終わると自嘲気味に首を振って笑い、その身を遥か眼下にある海へと翻した。
「あっアホか!」
身を投げ出した千原奈津紀が握った刀の剣先を、とっさに宏のグローブのような分厚い手が鷲掴む。
奈津紀の全体重の乗った和泉守兼定の刀身を、刃によって斬られた宏の掌から噴き出した鮮血が赤く染めた。
「は‥離しなさい」
「ぼけぇ!お前なにやってんねん!捨て鉢になるんやない!」
すでに死を覚悟した奈津紀は、愛刀と共に逝こうとしていたのだが、宏がそれを阻止してしまったのだ。
「・・・どこまでも思い通りにさせないつもりですか・・せめて兼定と逝きたかったのですが・・致し方ありません。・・菊沢宏・・私を破った貴方にならいいでしょう。この刀は・・和泉守兼定という名です。・・あなたに・・差し上げましょう」
必死の形相で自らの血で濡れた刀身を掴み、金網の平場まで奈津紀を引き上げようとしている宏の顔を眺めてそう呟くと、奈津紀は柄を握る手を離した。
「あほおおおぉぉぉぉぉ!」
闇に小さくなっていく奈津紀の表情は、穏やかではあったが、少しだけ心残りの憂いをたたえつつも微笑んでいた。
宏の叫びが、波と風の音にかき消され、奈津紀の姿は遥か眼下で激しく白波を立てる昏い海へと消えていったのだった。
【第9章 歪と失脚からの脱出 40話 天才外科医菊沢美里の不安終わり】41話へ続く
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