第9章 歪と失脚からの脱出 45話 菊沢宏と猫柳美琴
「うぉおお!?な、なんやぁ!?」
「もう一匹いやがったのか!?そのドロボウ猫の仲間か!」
予想外に現れた上半身裸でサングラスを掛けたムキムキというよりは所謂細マッチョの男のことを、ザビエラが二人を仲間同士だと思ったのも無理はない。
着ている服装も類似しているし、なによりこのタイミングで別組織の者が居合わせるとも考えにくいからだ。
ザビエラが、優香と劉が試合を開始する前に感じた気配は、宏ではなく、宏が身を隠していた配線ダクトのすぐ上にある排気用の窓にいた猫柳美琴の気配であったのだ。
服装からして、二人とも同じ組織の人間と判断したザビエラはまとめて捕縛する方向で良いと判断を下す。
「きっ貴様はっ・・・き、菊沢宏!!その刀は、和泉守兼定!・・ということは貴様!あの千原奈津紀を敗ったのか・・?!」
上半身裸にサングラス、肌の見えているところは刀傷で朱に染まっている部分も多いが、抜き身の刀を背負った筋骨隆々の宏に張慈円が驚きの声を上げた。
「ちっ!なんや妙な気配する思たらミコにゃんあったんか。まあ・・バレてしもたんならしゃーない!千原・・・思い出したくもないが、そうや!お前みたいなカスに雇われても、あの女は律儀に仕事を全うしようとしてたで!ほんま胸糞悪いったらないわ!お前みたいなクソカスに義理立てして命まで失うことになるなんて、浮かばれへん女やで。あんな後味悪い気分にさせられたことあらへん。張慈円お前もうホンマそろそろ死ねや!」
宏はそう言って張慈円を罵ったものの、ザビエラの攻撃で気を失って落下し出したアーマースーツの女、猫柳美琴を空中でキャッチし、ついでに手を伸ばしてアタッシュケースも器用に掴んで、排気用窓の枠に手を掛けた。
ダクト内から様子をうかがっていた時は、この状況で戦うのは得策ではないと冷静に判断していたのだが、潜んでいるのがバレてしまった今、そして、張慈円と言葉を交わしたことでボルテージの上がった宏は、戦うと覚悟を決めたのだった。
しかし、宏の女性を護るというフェミニスト魂で勝手に身体が動いてしまい、これから起こる戦いに不利になるとわかっていて猫柳美琴をキャッチしてしまったのである。
「ああ!ケースが!」
宏にケースを奪われた樋口が悲痛な悲鳴をあげる。
「ち・・千原が、あの千原奈津紀を本当に打ち負かしたというのか・・・!信じられん・・!あ奴を屠るなどあり得んぞ・・・!」
張慈円はいまだに宏が千原奈津紀を敗ったのが信じられない様子でいた。
張慈円はボディガードを依頼していた千原奈津紀とは3か月ほど行動を共にしていたのだ。
その間、行動を共にしていると見ようと思わずとも、奈津紀の脚や胸元は男性ならだれでも性欲をそそられる肉付き、ましてや好色家で有名な趙慈円が千奈津紀の美貌と体に興味を持たないはずもなくその結果、何度も襲い掛かって千原奈津紀の貞操を頂こうかと思って機会を伺っていたのだった。
だが本日まで千原奈津紀にはまるっきり隙がなく、力づくで襲い掛かる想定で千原を観察していても手に負える相手ではないと感じていたのである。
(認めたくはないが・・まともに戦えば千原は俺より強かったはずだ・・それを、あの菊沢の小僧が敗っただと・・?!あの小僧はそれほどの奴だったというのか・・・?いや・・単に相性・・いや、千原をはじめ高嶺の奴らは剣を使った正攻法が基本だ・・。単純な戦闘であれば、相性の良し悪しという隙は出来にくい・・。やはりそれほどの者だということか・・!・・しかし、しかしだ・・。いまこの状況でなら奴と戦うのはかえって好都合かもしれん)
表情はともかく張慈円の内心の動揺は大きい、そしてチラと倣華鹿とその部下たちを算段にいれて口角をあげ掛けたものの、同門の女ボスの目はハート形になっていた。
「・・まあ?」
張慈円は倣華鹿たちの戦力をアテにしていたのだが、倣華鹿は突然登場した上半身裸で筋骨隆々のサングラス男に心を奪われた顔をし、染めた頬に両手を当てているの姿を見てガクリと脱力する。
「華鹿!なにこじらせてやがんだ!オレらに察知されずにこの距離まで近づいた二人組だぞ!油断するんじゃねえ!」
ザビエラの声にハッとした倣華鹿は、ゴホンと咳ばらいをして表情を引き締めた。
倣華鹿がオーラを収束させると倉庫内の温度が一気に下がる。
「浮遊氷槍陣!・・ザビエラ、優香行きなさい!何としてもケースを奪い返すのよ」
先ほどとは違い、ザビエラの叱咤で正気に戻った倣華鹿の行動は速かった。
張慈円とは違い、千原奈津紀の力量などを感知する機会などなかった故に、千原奈津紀を破った菊沢宏の力量を知らないから動けたということもある。
倣華鹿の能力で倉庫内の温度が一気に下がったことで、息の白くなった二人の部下が応える。
「ぃよし!・・華鹿は自分の防御に専念してろ!優香行くぞ!」
「ええっ!」
倣華鹿は自身の周囲に64本の氷の槍を発現させると、周囲に展開させて曲者に備える氷の槍でできた防護陣を張り巡らせる。
ザビエラや優香が自分から離れても心置きなく戦えるように自身の安全を確保したのだ。
そのうえで、二人の部下に対しては、けしかけるような指示を下したのだった。
その二人の部下は、主人の指示に応えると機敏な動きで上階へと飛ぶ。
「張!手を貸してあげるわ。本来はあなたが奪い返さなきゃいけないモノのはずよ?」
倣華鹿は、となりで未だ動かずにいる張慈円に対し、自身の知る張慈円らしからぬ様子に訝しながらも声をかける。
「貴様ら!奴らを捕えろ!殺しても構わん!だがケースをキズつけるな!」
張慈円も正気に戻ったのか、部下にそう怒鳴ると、張の手下たちは手にした銃を構え一斉に構えた。
「ちっ。改造トカレフにアクテクばっかかよ。ろくなもん持っちゃいねえな・・。そんなボロで撃つな!ケースに当たる!オレたちがやるからてめえらは逃がさねえように囲め!」
優香より先行していたザビエラが、張慈円の部下が手にしている銃の粗悪さにケチをつつも、越権行為だとは思ったが張の部下にも指示を出して怒鳴り声をあげた。
その指示に張慈円の部下たちもケースを撃ち抜いてしまうことを怖れ、ザビエラの指示に従うように動きだす。
一方、ザビエラと同時に飛びあがっていた優香は、指示しているために立ち止まったザビエラを追いこし、階下から一気に肉薄してきた優香が宏に向かって拳を繰り出した。
ぶぅん!
肉体強化をしたうえ、振動も纏った拳が物騒な唸りをあげて宏を掠めた。
「麗華!おまえなんでこんなところに居るんや?!俺のこと忘れたんか?」
宏に初撃を躱されたことで、驚き表情を引き締めなおした優香に向かって宏は訴えた。
「ちっ!今のを避けるなんてね・・!・・衝撃入魂!死ね!」
しかし、優香は宏の問いかけを無視して吼えると、再び凶悪な振動のオーラを纏った左手の拳で宏にボディブローを打ち込んだ。
どしぃいいいいん!
猫柳美琴を抱え、アタッシュケースを掴んだまま窓枠を掴んでいた宏の腹部に、優香の渾身の拳が突き刺さる。
倉庫中をビリビリと震わせる強打が、かつての上司の腹部に容赦なく叩き込まれ、宏は身体をくの字に折り曲げて呻く。
「・・くぅ・・」
「えっ?!」
しかし、攻撃をまともに喰らわせたほうの優香のほうが驚きの声をあげた。
(そんな・・まともに入ったはず!?さっきの試合の時と違って全力でぶち込んだのに・・・!こいつ・・・何者なの?!!)
攻撃が成功したことで相手の実力の片鱗がわかり、優香は激しく戦慄したが宏も驚いていた。
(麗華がこんな技使えたなんて聞いたことあらへん・・・!)
優香としては一撃で必殺するはずのつもりで放った一撃であったが、宏にとっては想像以上の威力ではあったものの、ノックアウトさせられるほどではない。
「ザビエラ!!」
渾身の一撃で相手を戦闘不能にできなかった焦った優香は、すでにすぐ近くまで追ってきているであろう同僚の名を呼ぶ。
「十分だ優香!おらよぉっ!」
どごおぉおおおん!
追いついてきたザビエラが優香の背後から飛び出し、オーバーヘッドキックで宏を階下まで一気に蹴り落す。
(っくっそ!・・麗華より数段威力がありやがる!・・この二人相手にしながら張慈円か・・・いけるか・・?テツやモゲが来てくれたらええんやが、あの二人も高嶺のねーちゃんら抑えとるはずや・・。あの千原いう女並みの剣士がもう二人も現れたら、それこそ収拾がつかへん・・。今がチャンス・・か)
ザビエラの蹴りにもオーラによる衝撃が宿っており、宏は何とか肘でガードしたものの、肘から脳天にかけて鋭い痛みが駆け抜ける。
(能力者は・・この二人に張慈円と樋口で4人・・いや、華僑の女ボスも能力者のはずや5人か!いくら何でも無茶苦茶やがな・・・。ミコにゃんもほっとかれへんし・・。しかし、あんな状態になった麗華をどうする?!そっちが1番ほっとかれへん案件やないか・・!)
どしんっ!
蹴り下ろされながら敵戦力を冷静に分析しつつも、なんとか空中で一回転し両足で着地する。
しかし、宏の窮地は変わらない。
「死ね菊沢宏!」
バチバチと、張慈円の放った青白い光が着地した直後の宏と無防備な美琴の体中を駆け抜ける。
「ぐっ!カス慈円の野郎が!狡いタイミング狙いやがってからに!」
バチバチと迸る青白い電撃を耐えて張慈円に吼えた時、宏の抱えている美琴が苦しそうに呻いた。
「く・・っは・・っ!?」
ほとんど宏が防御したとはいえ、今の張慈円の電撃攻撃のダメージで美琴は目が覚めたのである。
「え・・っ!?菊沢宏!?・・えっ!・・痛つつつ!で・・電流!?雷帝!!?」
「起きたんかミコにゃん!自分で立てるな?」
「わ、私見つかって・・・、ってこの状況は・・・!ああああ!ど、どうしよう!うわあああ!」
電撃の激痛で目を覚ましたものの、なぜか菊沢宏に抱えられた状況で、周りは美琴から見れば、香港マフィアのそうそうたる顔ぶれの悪党が戦闘態勢で囲んでいたのだ。
「ひぃ!ひあああ!わ、私は頼まれただけで・・!」
宏に抱えられたままの美琴はじたばたと手足を動かし逃げようとしたが、いま下手に動き回られても敵に殺されるか捕まってしまうと判断した宏が、美琴の細腰をぎゅっと抱えて太い落ち着いた声で、美琴に話しかけた。
「ミコにゃん落ち着けや。とりあえずケース持って自分で立つんや。ってミコにゃん。って言うか・・ミコにゃん普通に喋れるんやな・・・」
「そ・・そんなこと今どうだっていいでしょう?!」
宏にそう言われ、地上に足を下ろされたが、美琴はこんな状況でどうしていいかわからないほど混乱して宏に怒鳴り返した。
「お取込み中ごめんねナイスガイさん。・・六華垂氷刃」
「うぉ!くそがっ!」
「ひゃぁあ!」
宏と美琴のやり取りを少し眺めていた倣華鹿が、用意し練り込んでいた大技を不可避な広範囲に広げて放ってきたのだ。
躱せば美琴がズタズタにされる。
宏はオーラ防御を展開し、迫りくる氷の刃と、上空から迫ってきているはずのザビエラと麗華に備えた。
澄んだ音を響かせて6枚の氷結晶の形をした刃が、宏に襲い掛かりズタズタに切り刻むはずであったが、氷の刃はギリギリのところ止まったのだ。
「ちっ!どういうつもりや」
宏が鋭く舌打ちしたのは、術者が意図をもって氷の刃を止めたのがわかったからである。
6枚の花の形をした氷の結晶の他にも、64本の氷の槍が周囲に浮かび、宏に照準を付けているかのようにその尖った先端を向けている。
「大人しくケースをわたしなさい。・・やっぱり間近で見るといい身体・・・ウデも立つし殺すのは惜しいわね・・(ポッ)」
着地したザビエラと優香が、頬を染めた倣華鹿の左右に立ち宏を警戒するように構えた。
「また悪い癖がでたのかよ華鹿!・・不用意に近づくな!抱えられてる女はともかく、こいつぁ強ええぞ」
ザビエラがまたかよ。といった様子で倣華鹿を窘めるが、本人は宏を氷の刃と氷の槍で囲んだまま、興味深そうに喋り出した。
「だからよ。いい男じゃない。優香やザビエラの衝撃波にも耐えるタフさ・・。それに見て。戦意を失った味方を庇うように立っている男気にも感じいっちゃうわ・・顔が見たいわねえ。・・・ねえ、ナイスガイさん。サングラス取ってみせてよ。ここにはどんな用で来たの?・・私の名前は倣華鹿、香港三合会の三幹部の一人、華僑の倣華鹿って言えば知ってるかしら?・・あなたの名前を教えてくれないかしら?そんなに警戒しないで?私あなたのこと気に入っただけよ?・・でも話の前にそのケースを手放してもらえないかしら?この状況じゃあ悪い話じゃないはずよ?ねえ、どうかしら?」
「おい倣!とっとと殺した方がよい相手だぞ!」
体中に帯電して髪の毛を逆立たせて構えている張慈円が、同門の元同僚が菊沢宏に興味を持ち懐柔しようとし出したのを鋭くたしなめるが、宏に興味を持った当の倣華鹿は諦める様子はなさそうだ。
「こんな状況じゃ、いくら腕が立ってもどうもできないわよ。ねえ、ナイスガイさん?少しお話しましょうよ?」
倣華鹿の様子に電気を纏った張慈円が不快そうに鋭く舌打ちをしたが、取引相手でもある倣華鹿に強く言うこともできず、不服ながら言葉を噤んだ。
そんな香港三合会の幹部同士の会話をサングラス越しに眺めていた宏は、ゆっくりと口を開く。
「いっぱい質問してきよって・・あんたのその質問の前に、まずはその女のこと教えてもらおか?」
猫柳美琴を自力で立たせたことで空いた手で、宏は麗華を指さしてそう問いかけた。
「え?私より優香の方が好みだっていうの?!・・・そりゃ優香のほうが私より若いかもしれないけどさ・・私だってなかなかのもんじゃない?」
「・・あほか・・もう少ししっかりしてくれ。敵にアホだと思われるだろうが」
倣華鹿とザビエラがいつものやり取りをしだす。
「ちゃうわ!・・そいつの名前は優香やないっ寺野麗華!それで俺の中高大学の同級生で、今現在も俺の同僚や!なんでウチの麗華がマフィアの女なんかと居るんや?おい!麗華!みんな心配してるんやで?どこほっつき歩いとったんや!」
倣華鹿とザビエラのやり取りを遮るように大声をあげた宏であったが、優香こと寺野麗華は戸惑いの表情を浮かべながらも油断なく宏を睨み言い返してきた。
「・・・誰だ?お前なんか知らない。その名で呼ぶな・・私は優香。湯島優香だ。華鹿さまを御守りする盾。だが・・・貴様も華鹿さまの情けを受けるのならば私たちの同胞だ。華鹿さまの恩情の言葉にさっさと答えろ」
「麗華・・お前・・ふざけてんちゃうんかい?・・・ふぅぅ・・・ほんまに俺のことがわからへんのか・・?」
倣華鹿の前で、隙なく構えた格好のままでいる優香に、宏は呟くような小さな声で呪詛を掛けられてしまっているであろう麗華の様子に落胆したが、麗華の後ろに涼し気な笑顔で立ち、扇子を手でもてあそんでいる倣華鹿を怒りの形相で睨みつけた。
「・・お前か?」
「え?」
「麗華に何しやがったんや!?張慈円!お前麗華さらってなにさらしとんじゃ!スノウやお嬢・・美佳帆さんみたいに凌辱するだけじゃ飽き足らず、洗脳までしよったんか!?」
こめかみに極太の血管を立たせた宏が、サングラス越しでもわかる怒りを燃やしながら倣華鹿と張慈円に怒鳴った。
「ふんっ!俺の知ったことではない!しかし、そうだとしたらどうだというのだ!?」
「ちょっとちょっとなに怒ってるのよ。洗脳なんてしてないわよ。そんな能力持ち合わせちゃいないわよ」
挑発する張慈円とは違い、倣華鹿はサングラス男の突然の怒りが理解できなかった。
おそらくサングラス男は、優香の以前の知り合いではあったのだろうが、倣華鹿の【契約】も【容量増加相乗】も当人同士の同意が無ければ成立しない能力である。
優香の知人であるかもしれない一人の男に、ここまでの怒りを向けられるほどの言われはない。
「お前が術者やな・・?」
怒りの形相の宏の目が倣華鹿に向けられ、サングラス越しに赤く光って見えた。
「な・・なに?!」
宏に対して友好的な笑顔で話しかけていた倣華鹿の表情から笑みが消え、ヒールを鳴らして後ずさりした。
もともとガチの戦闘を好まない倣華鹿は、宏のあまりの迫力と圧力に気圧されたのだった。
宏が床を蹴り動いた。
青白いオーラの筋が縦に一閃する。
鮮血が天井に迸った。
「やっ!野郎ぉお!!」
突然ザビエラが焦った声で吠え、咄嗟に倣華鹿を突き飛ばして宏の顔面に拳を叩き込むと同時に鮮血が天井に迸る。
派手に宏が床に倒れ、そのまま殴られた衝撃で壁の方まで吹き飛んだ。
宏が壁に激突してからすぐに、倉庫の床にどさり・・!と何かが落ちた音がしたあと、ぱたたた・・と先ほど天井に向かって巻き上がった赤い液体が滴り落ちる音が響く。
「え・・?・・え?・・・ぁあ!」
突き飛ばされ床に膝と尻をついた倣華鹿は、いきなりのことで放心し、狼狽しつつ、なぜ右手に持っていた扇子を掴んでいられないのかが分かず、右腕を確かめるように左手で空を掴んでいた。
「華鹿さま!」
「く・・クッソ野郎がぁ!」
座り込んだ倣華鹿に駆け寄る優香、殴った格好のまま顔を歪め、宏を睨みつけているザビエラ、腕を肩口から斬り落とされ瞳孔の開いた目で信じられないといった表情で、傷口を眺めて放心しているへたり込んでいる倣華鹿。
扇子を握ったままの女の腕が血まみれで床に転がっている。
「そ・・そんな・・わ・・わたしの・・・・?」
腕を斬り飛ばされはしたが、ザビエラが突き飛ばさなければ、倣華鹿の上半身は心臓から脳天にかけて裂かれていたはずであったのだ。
豪奢な旗袍とロングコートを血と埃塗れにして蹲っている華僑の女ボスは、信じられないという表情で放心している。
倣華鹿の様子など気にした様子もなく、ザビエラの渾身の一撃を受けながらも立ち上がった男はサングラスを外した。
その瞳はその男の怒りを表すように赤く、深く紅に染まっていた。
女は不殺と誓っていた菊沢宏は、千原奈津紀の覚悟に応えようと自分のルールを曲げようとしたが思いとどまった。
それは、千原奈津紀の覚悟以上に、殺すには惜しい女だと感じたからだった。
結果は宏の思い通りにはいかなかったが、宏は千原奈津紀にとどめを刺す気は無かった。
しかし、寺野麗華に添付された呪詛を解除させる条件の一つが術者の殺害の可能性が高いと判断した宏に迷いはなかった。
中学生時代からの幼馴染であり、今も部下であり仕事仲間であるはずの寺野麗華の洗脳を解くためであれば、師匠から教えられた女は不殺という誓いを破るのは些かの躊躇も感じなかったのだ。
「カス慈円・・・マフィアのボス猿女・・・そのお付きのデカい女・・・ついでに樋口っおのれもや・・・おのれら全員八つ裂きにして魚の餌にしたるさかい覚悟はええか・・・」
静かだがその場にいる全員に確かに聞こえるくらいの声量で、宏の怒りのこもった言葉が倉庫内に響くと、宏の真紅に変色した目はさらに赤みを帯び、宏の身体から発散されているオーラの絶対量がけた違いに増え続けていっていた。
【第9章 歪と失脚からの脱出 45話 菊沢宏と猫柳美琴終わり】46話へ続く
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