第8章 三つ巴 36話 強い敗北感
遠くのような気がするのは気のせいで、すぐ近くに言い争う声が聞こえる。
最初は恋人同士が喧嘩をしているのかと思ったのだが、どうやらそうではなさそうだ。
無意識に耳を欹ててしまいうが、倦怠感が体中を蝕み、目を開けるのですら億劫に感じる。
(どうしたのかしら・・すごく疲れているわ。それにすごく寒い・・)
寒い朝布団から出るのが辛い症状に似ているが、普段寝所で愛用しているベッドのような柔らかさや温かさはない。
まどろみに近い混濁した意識の中で、言い争う喧噪が過ぎ去ってくれないかと期待していた。静かになってくれればもう少しゆっくりと休んでいられる。
しかし、目を閉じ何故か思うように動かせない手足を丸めてやり過ごそうとしているのに、二人の言い争う声は止まる気配はなく、むしろまどろみという池の中からその淵へと少しずつ揺蕩わされ会話の声色が聞き取れるようになってきた。
言い争う声の一人は男、もう一人はよく知った声、加奈子であった。
「もうやめて!今はそんなこと言ってもしょうがないじゃない」
(弱気な声。加奈子ったら・・。また苛められているの?そんな弱気な声じゃダメですわ。・・・・昔の癖はすっかり治ったと思ったのに・・・どうしたのかしら?自信を持って・・貴女をどうにかできるのなんて私ぐらい・・いえ・・純粋な組手だともう私でも敵わないわ)
加奈子は言い争っている声の主とは掴み合いになったらしく、靴が地面を蹴り擦る音、服が掴まれ引っ張られる音が耳に入ってくる。暴力に晒されそうになった加奈子の声にも普段の調子が戻ってくる。
「いい加減にしてよ!見たらわかるでしょ?」
「わかっとる!それでも言うとるんや!」
初めて男の声がはっきりと聞こえた。低く力強いよく通る声、意思の強さを感じさせる声の主はかなり苛立った様子で声を荒げた。
昔気弱だった加奈子であれば間違いなく黙ってしまうほどの圧力と声量、しかし今の加奈子はそうではない。
それにしても、
(関西弁・・・?誰よ・・)
加奈子に狼藉を働こうとしているかもしれない悪漢を確認しようと関西弁が聞こえたほうへと視線向ける。
しかし、何故か視界は暗いままだ。
(・・ど、どうして?!)
佐恵子自身が自らの身体が自由に動かせない状況に、狼狽える。
「見てよ!・・・支社長は喋れる状態じゃないでしょう!?」
まどろみの池に揺蕩っていた意識が、加奈子の声で一気に覚醒近くまで呼び戻された。
(支社長・・・?・・わたくし・・?わたくしが喋れる状態じゃないって言いますの・・?)
「わかっとる!って言うてるやろ!どいてくれや。全く手掛かり無いんや。・・・美佳帆さんになんかあったら・・・!重症やが支社長さんは一応無事や・・。命に別状あらへんって師匠も言うてくれてる!・・なんでもええ。美佳帆さんの手がかりになるかもしれへんやろ!?」
(この声・・・加奈子と言い争ってるのは・・菊沢宏?)
意識がはっきりとしだした瞬間、倦怠感に包まれた重い体が急にはっきりと感じられる。身体の末端が冷たく動かしにくい。どうやら冷たい床のようなところで横にされているようだ。
身体を起こそうと手を付き、状況を把握しようと頭が高速回転し出したとたん、千原奈津紀と壊れた笑顔の二刀女が刃を振るった瞬間が脳裏にフラッシュバックする。
「・・っ!!ぅ・・っ!・・っ!!」
能力を発動した瞬間に首筋に走る刃の感触、必死で治療している真理の背後から、禍々しい笑顔で小太刀を振りかぶった短髪小柄な二刀女。その直後に肩口に小太刀を突き刺され捩じられた感触を思い出し身体をびくん!と跳ね悲鳴を漏らす。
しかし喉にはなにかが詰まっており、無様な悲鳴を上げないですんだのは佐恵子にとっては幸いであった。
反射で目を見開こうとしたが、付着した血で瞼がうまく開かず、顔の表面が突っ張ったような不快な感触に眉を潜める。悲鳴も上げられなかったが声も上手く出せない。
喉に異物が大量にあるようで、しかも生臭い。
(こ、これは・・?血)
声を上げ、身を起こそうとした瞬間に、顔を水で濡らされた布で拭われる。
ようやく目を開けることができ、悲しみ、安堵、喜びのオーラを纏った加奈子の顔が映し出される。
「支社長!気が付きましたか?!」
「か・・・こ?」
加奈子と発音したかったのだが、喉に詰まった血のせいで、上手く発声できなかった。
加奈子が持っている布には、血がぺったりと付き、顔が突っ張ったような不快な感触は血が凝固したものだったと理解したとき、突然正面から両肩をがっしりと掴まれた。
驚き顔を上げるとそこには、焦燥、憤怒、後悔、軽蔑のオーラを纏ったサングラスをした菊沢宏がいた。
左手で私の身体を抱き起し、優しく顔を布で拭いてくれていた加奈子が宏を牽制するように、布を掴んだ右手を私の前に突き出す。
「美佳帆さんと麗華がおらへん!・・どこ探してもや!俺がここに戻ってきてあんたがここで寝てた1時間ほどずっと探した。下の公園、護岸の遊歩道。2か所以上で戦った痕跡がある!・・・美佳帆さんも麗華も戦ったいうことや!・・・あんた守るって・・、張慈円が来ても相手してやる言うてたんちゃうんか?!」
佐恵子の両肩を強く掴みそう発言する菊沢宏は、僅かに全身を震わせながら、宏が纏っているオーラとは違って極力冷静にそう言った。
宏の様子と発言、そして纏ったオーラで状況をほぼ飲み込んだ様子の佐恵子は、加奈子が手に持っている布を取り、口に当てる。
「ごっ・・ごほっ!・・・」
喉に詰まっていた血を、布に吐き出し口に付着した血を拭うと宏のサングラスを見つめ、何かを言わなければと言葉を探す。
「支社長・・・。無理しないでください・・。支社長が助かったのは本当に運がよくて・・」
目尻に涙を溜めそういう加奈子に手を上げ笑顔を返す。
「加奈子・・ありがとう。髪の色が・・・また随分と無理をさせたようですね」
佐恵子は極力笑顔をつくり、色素がますます薄くなった加奈子の髪の毛に手をやって、軽く手で梳くとそのまま頬を撫ぜた。
「大丈夫ですよ・・。支社長。・・少し休めば戻りますから・・」
目を瞑りそう言う加奈子から正面にいるサングラスの大男に目を移すと、佐恵子は大男が発する今にも暴れ出しそうな力強いオーラに気圧されながらも血の気のない顔を向けた。
「・・・本当に、言い訳できませんわ」
宏の顔をしっかり見ながら、本当に申し訳ないと思いながらもはっきりと言う。
相手の負の感情今にも暴れ出しそうな様子が見えていながらも、佐恵子は表面上だけは毅然と振舞う。
宏は言葉でこそ発しないが、そのオーラには千万の罵声と非難が籠っているの見てとれる。
他者の感情が視認できてしまう佐恵子にとって、幼いころは耐え難かった他者の想いではあったが、能力の成長で相手を操作する能力、自らの精神力を強化付与する力を得て耐えられるようになったと思っていたが、それは対象のオーラ量の多寡によるものだとこの時はっきりと分かった。
「たられば言うてもしょうがない状況やとわかっとる!・・・稲垣さんから大体状況は聞いた。神田川さんもアリサも何とか無事や。・・しかし、美佳帆さんと麗華がおらへん。俺、テツ、モゲで周り探したけどおらへん。戦った痕跡があるだけや。橋元や張慈円の根城にしてそうな情報は美佳帆さんが管理しとった。いまスノウたちも、支社に来るように呼んである。・・・もうすぐ霧崎言う捜査官らがここにも雪崩れ込んでくる。場所が判ればすぐさま向かう。ええな?!」
掴まれた両肩から宏の体温と感情がさらに伝わってくる。
分厚く大きな手からは熱いぐらいの体温が感じられ、全身からは宏のオーラに反映されている通り怒気を強靭な精神力で抑え込んでいるのが見て取れる。
「・・・わかりましたわ。とりあえず急ぎ戻りましょう」
宏の言葉は関西弁になれない佐恵子にとっていつも通り粗野で乱暴に聞こえた。
しかし、宏の言葉は宏の感情に比べようもないぐらいおとなしかった。
佐恵子は宏の大きな拳で顔面を殴られ兼ねないほど荒い宏の感情を見ていた。
無骨で鈍感だと思っていた男に、忍耐力があり冷静という評価を付け加え佐恵子は自分の無力と驕りを生まれて恥じた。
できればこの男には忸怩たる思いに打ちのめされた姿を見せたくはなかったが、この男の怒りは当然だと理解もできる。
どれほど伴侶を大切に思っていたのかも同時に伝わってくる。
(・・・美佳帆さま、私のせいで・・)
「は・・!加奈子、真理も無事!?」
両肩を掴んでくる宏の視線を正面から受け続けるのが辛いのもあったが、加奈子に顔を向け目の前で二刀女に首筋を切裂かれた真理の安否を聞く。
「はい・・。支社長と同じぐらいの深手でしたけど・・なんとか」
加奈子の返事に心底安堵し、続けて加奈子に指示を出す。
「では、こんな時間だけど5Fに全員集めて。菊一のメンバーも。北王子さんに即自動絵画をさせて美佳帆様の状況を掴みましょう・・。そのうえで伊芸さんの残り香で追跡を試みますわ・・・。私も、そのお二方の能力がどの程度の精度かわかりませんが・・・いまは試すほかありません」
「真理はすでに支社長を治療してくれたご老人と一緒に支社にもどってます。おそらくその準備をしているとは思いますが・・」
佐恵子は真理から聞いていた、北王子公麿と伊芸千尋の能力を思い出した。
加奈子が真理と栗田と呼ばれる初老の男の話をしだしたとき、宏は佐恵子の両腕を掴んでいた手を離し、慌てた様子でポケットのスマホを探し出す。
「・・焦って肝心なことを・・!完治はしてないやろうけど千尋にも手伝うてもらわんと・・」
画伯こと北王子公麿と、お嬢こと伊芸千尋に向けスマホを操作した宏が背を向け通話し出したとき、佐恵子は隣で血を拭いてくれている加奈子に問いかける。
「あと・・ご老人・・・?まあ、行きながら聞きましょうか。それよりも急ぎましょう。公安が来るのでしょう?・・・加奈子・・起こしてください。脚に力が入りませんわ・・・」
「支社長。・・もうしばらく。服と輸血、点滴の用意もさせてますから・・・」
肩を貸してくれている加奈子が心配そうに話してくれているが、佐恵子の耳にはほとんど入らないでいた。
「・・・わたくしが負け・・」
肩を借り、覚束ない足取りでかろうじて歩く佐恵子は、誰にも聞こえないほどの小声で思わず呟いていた。
千原奈津紀、南川沙織、そして菊沢宏。自身を殺しうるほどの力を持つ存在に、この数日で何人も出会い、今まで他者を潜在的に見下す癖がついていた佐恵子は、今まで感じたことのない不安を処理できずにいた。
【第8章 三つ巴 36話 強い敗北感 終わり】37話へ続く